日本という国は、弥生時代から受け継がれた歴史大国です。 古代日本正史(昭和51年 同志社 原田常治著)によると、航海技術に長けていた 素佐之男(スサノオ)は、五十猛(イタケル)、抓津姫(ツマツヒメ)、大屋津姫 (オオヤツヒメ)、大歳(オオトシ)・・・後の饒速日(ニギハヤヒ)らの御子と共に鈴鹿 山脈以西の西日本や北陸地方に赴き、稲作や製銅・製鉄、造船等の技術を教えることで 生活の質を向上させたようです。和歌山の須佐神社(有田・田辺・御坊市)、 熊野速玉 大社 にはスサノオ、伊太祁曽神社にはイタケルとその妹であるツマツヒメ、オオヤツヒメ、 熊野本宮大社 にはニギハヤヒが祭られています。 約1800年前には、スサノオの孫であり、ニギハヤヒの末子だった伊須気依姫(イスケ ヨリヒメ)との婚儀のため、伊波礼彦(イワレヒコ)が、日向から大和に御東遷されました。 熊野から陸路で大和まで到達した後に、初代神武天皇として即位したとされています。 イワレヒコは、伊弉諾(イザナギ)と伊弉冉(イザナミ)の一人娘で後の世で卑弥呼として 語り継がれる大日霊女貴命(オオヒミコムチノミコト)の孫にあたります。 生駒で負傷し、和泉仏並で亡くなった神武天皇の長兄である彦五瀬(ヒコイツセ) は竈山神社に祭られています。熊野から陸路を道案内したと言われる武角身(タケツノミ) は、またの名を八咫烏(ヤタガラス)と呼ばれ、矢宮神社の御祭神となっています。 また、神武天皇と戦って敗れたとされる女性豪族の名草戸畔(ナグサトベ)は、殺された 後に体を切り離され、頭は宇賀部神社(別名おこべさん)、胴は杉尾神社(別名おはら さん)、足は千種神社(別名あしがみさん)に埋葬されたと言い伝えられています。 今でこそ天皇は日本の象徴という位置づけですが、当時は和をもって人々を守り、先導 するような存在・・・いわゆる神でした。 明治天皇の玄孫であり作家の竹田恒泰氏が、和歌山での講演会で、第2次世界大戦 で日本が敗北した際に、アメリカのGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーはそれまで 行われてきた神道教育を廃止することで、日本人の精神的強さ・・・いわゆる大和魂を 削ぎ取ったと述べていました。 ドラえもんが未来へ帰ることになって、今のままではいけないと感じたのび太が、ジャイ アンにどれだけ殴られても立ち向かってゆく強さ・・・。 圧倒的優位に立っているはずなのに勝っている気にさせないというのが、終戦直前の 日本の凄味だったのかもしれません。 ポツダム宣言後、昭和天皇はマッカーサーと面会して、 「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に 対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、 お訪ねした。」と仰せられました。 また、昭和天皇は食料不足に陥って難を極めた当時の松村農相に対して、 「戦争に塗炭の苦しみをした国民に、食糧事情の悪化でこのうえさらに多数の餓死者を 出すようなことはどうしても自分には耐え難いことである。政府の食糧提供要請に、米国 は応諾を与えぬそうであるけれども、当方からは食糧の代償として提供すべき何者も ないのだから致し方ない。聞けば皇室の御物の中には、国際的価値のあるものが相当 にあるとのことである。よって帝室博物館の館長に命じてその目録を作成させたのが ここにある。これを代償として米国に渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐ ようにしたい。そのように取りはからうように」と・・・ 感激した松村農相は早速、幣原首相に報告し、幣原首相は御物の目録を携えて マッカーサー総司令官にかけ合いました。マッカーサーは「皇室の御物を取り上げて、 その代償に食糧を提供することは面目にかけてもできない。この目録は陛下にお返し されたい。国民のことを思う陛下の心持ちは十分に了解される。自分が現在の任務に ついている以上は、断じて日本国民の中に餓死者を出すようなことはさせぬ。陛下に ご安心なさるよう申し上げてもらいたい」と幣原首相に答えたそうです(引用HP)。 昭和天皇は国民を想い、マッカーサーは昭和天皇の高貴なお心と慈悲深さに感動し、 最上の賛辞と誠意を見せました。 また、軍事補佐官から「もしも天皇が、戦争犯罪人のかどで裁判にかけられれば、統治 機構は崩壊し、全国的な反乱が避けられないだろう」という進言を受け、戦争責任の 調査を要請したアメリカ政府に対して「昭和天皇の戦争責任を追及できる証拠は一切 ない」と回答しています(参照ホームページ)。 近代日本の姿は、古代から数々の戦乱や改革を経て、国民主権という考えの元に築き 上げられたのですが、日本国憲法の草案がデモクラシーの先進国であったアメリカの マッカーサーによって創られたということは、運命的ですが複雑な思いです・・・